Hamada Hironao
1977年 高知県生まれ
高知県いの町で江戸時代より代々和紙作りを営んできた濵田家に生まれる。
祖父は土佐典具帖紙で人間国宝に認定されている濵田幸雄氏。20歳の頃から祖父の手伝いをしながら紙漉きの技術を学ぶうちに、手漉き和紙の魅力に惹かれていった。
そして、衰退する伝統の土佐典具帖紙をもう一度世に広めるため、良質の和紙作りに勤しむ毎日を送っている。
代々続く和紙職人の家に生まれましたから、祖父の紙漉きの音は当たり前に聞こえる「生活の音」でした。和紙作り自体も特別な存在ではなかったので、自分がこれを仕事にするとは思ってもいませんでした。父も勤め人でしたし、祖父からも家業を継ぐよう、言われたこともなかったので。
私は映画が好きなので高校卒業後は映画技師になりたいと思っていました。しかし、今は映画館自体が少なくなり、叶わない夢とあきらめたんです。
卒業後、軽い気持ちで祖父の仕事をするようになりました。職には就いていませんでしたし、以前から時々は和紙作りの手伝いをしたことはあったので。ですから、この当時の私には、祖父の跡を継ぐという強い気持ちや覚悟はありませんでした。それから十数年の時を経て、やっと和紙作りが自分の仕事となりましたが、「和紙」に対する思いが変わったのは、ここ一、二年のことだと思います。はっきりとしたきっかけが分からないのですが、気がついたら常に紙のことを考えるようになっていました。和紙の伝統、技術、そして未来を。
それは自分にとって劇的な気持ちの変化でした。その時、自分の全てをかけ祖父の跡を継ぐ、という覚悟を決めました。
祖父の跡を継いでから、それまでの自分の考え方、そして性格さえも変わったように思います。
それまでは和紙や和紙作りに関することを人に話そうとは思いませんでしたが、今はより多くの人に知ってもらいたいと、機会があれば積極的にお話させていただいています。そして、私が漉いた和紙を手にとっていただいた方の正直な感想をお聞きし、それを次の和紙作りの土台、力としています。
人間国宝である祖父の跡を継いだ以上、いい加減な仕事、和紙作りはできません。そして、土佐典具帖紙、「濵田の和紙」の存在を少しでも多くの人に知ってもらいたいと思っています。それにはたくさんの方々の力、協力も必要です。原料作りから次の世代の職人が育つ環境などを総合的に考えなければなりません。先はまだまだ長いですが、和紙風ではなく「これが本物の和紙」というものをどんどん作っていきたいと思います。
取材の合間、同じく手漉き和紙職人の弟 治さんから、洋直さんのお話を伺いました。
「兄とは小学生の頃までは、よく一緒に遊びました。天気のいい日は川遊びが日課でしたね。でも、成長するにつれ兄と自分の違いを感じるようになりました。例えば何か作業をする時、僕はゴールを目指し、まわりには目もくれず、ひたすら没頭するタイプなんですが、兄はONとOFFがきっちりしていて、その切り替えも上手です。集中する時は人が変わったように打ち込み、ある時点でぱっと止めてしまう。波がありますが、ONの時の集中力は凄いものがありました。」とのこと。
対象的な二人は今、「和紙」のために協力しながら、自らの技術に磨きをかけている。
言葉を掛け合うことは少ない。しかし、「濵田」の名の下で、互いを意識し刺激し合っていることが作業場の空気から伝わってくる。
かつて一緒に川遊びに明け暮れていた兄弟が、土佐和紙の新しい未来を創造していく。
土佐高知は良質な水や優れた製紙原料に恵まれていたため、およそ1000年も前より和紙の有数な産地として大きな発展を遂げてきた。
中でも土佐典具帖紙は吾川郡いの町で作られる手漉き和紙で、製紙技術の発展に尽力をつくした吉井源太の指導の下、明治初期に生まれた良質の和紙。手漉き和紙では「世界一薄い」と言われ、その反面、大変丈夫で、当時欧米で普及しはじめたタイプライターの用紙として海外に輸出されるようになり、地場産業として発展した。
しかし機械製紙による洋紙に押され、土佐典具帖紙も衰退の一途を辿っている。