Konno Sho
1986年 秋田県生まれ
小学生の頃からスキーにのめり込み、国体・インターハイに出場するほどの腕前。
花火との出会いは8年前。スキー指導の仕事の傍ら、アルバイトで花火の打ち揚げ現場の手伝いをした際、花火が揚がった時の観客の歓声に心を鷲掴みにされた。
「見る側より見せる側になりたい」と、響屋に入社。現在は花火作りだけでなく、花火大会の演出も任されている。
今でも忘れることはありません。アルバイトとして初めて打ち揚げ現場に行った時、花火が揚がった瞬間、会場から地響きのような歓声が聞こえてきました。「一瞬で人の心を動かせる、なんてスゴイ仕事なんだ!」と、一気にスイッチが入りました。その瞬間、「見る側ではなく見せる側になりたい」と花火師になることを決意しました。
火薬を扱う花火作りは、いつも危険と背中合わせです。今、こうして生きていること自体、運がいいのでは…と、思う時もあります。でも、あの時の歓声が忘れられず、もっと大きな歓声が聞きたいという思いで、花火と向き合っています。一瞬で散ってしまう花火が、誰かの心に一生残るように…そんな花火を作ることが僕の夢です。
また、花火にはチカラがあります。それは、「人の心を動かせるチカラ」です。どんなに気持ちが落ち込んでいる人も、花火が揚がれば必ず空を見上げます。花火が嫌いな人って、いないと思うんです。イヤなことがあって気持ちが落ち込んでいる人も、僕たちの打ち揚げる花火を見て笑顔になってもらえたら、そんなに嬉しいことはありません。
お客さんの喜んだ顔が僕たちの1番のチカラになりますから、一人でも多くの人がハッピーな気持ちになってもらえるように最高の花火を打ち揚げたいと思います。
花火師は火薬を使って、皆さんの心に残るような花火を作っています。
火薬は、一方では武器として使われています。それは、とても悲しいことです。私の祖父は、冷戦時代のドイツ、ベルリンで花火を打ち揚げました。まだ、ベルリンの壁で東西が分裂していた時代です。
「ベルリンの地上には壁がありますが、空に壁はありません」。西の人も東の人も花火を見て、とても喜んでくれたと聞きました。ベルリンの壁が崩壊したのは、それから2年後のことです。
世界には未だ紛争や戦争をしている地域があります。そこで私たちの花火を打ち揚げて人々を笑顔にできたらと思います。いつの日か、自分の手で大空に平和の花を咲かせたいですね。
2016年の大会(第90回全国花火競技大会)では、「創造花火の部」で準優勝しました。
その花火は、その年の2月に亡くなった親父のために打ち揚げた花火だったんです。
親父からは、弟(響屋社長・齋藤氏)と一緒に花火のことをたくさん学びました。教えていただいた技術だけで作った花火を打ち揚げました。
生きている間に伝えられなかった「感謝」を花火にして、天国へと打ち揚げました。その想いは、間違いなく天国に届いたと思っています。
準優勝だったのは、「親父から来年も優勝目指して頑張れ」って言われているような気がします。
来年は内閣総理大臣賞(日本一の花火師)を目指して、一発一発魂を込めて作りたいと思います。その時は、天国の親父も笑ってくれるんじゃないですかね。
今回、取材させていただいた「響屋」には、多くの若い職人さんがいました。その一人ひとりが花火が大好きで、一発一発に情熱を注いでいました。
花火作りはチームプレーで、皆が「いい花火を打ち揚げたい」と同じ気持ちにならなければ、夜空に大輪の花を咲かせることができないことを知りました。
花火師たちの思いが詰まっているからこそ、感動するのだと。
来年の夏、また大曲であの感動を、花火師たちの思いを、味わってみたいと思います。
もともとは神社の祭礼などで花火を打ち揚げていた。
1910年に東北で有名な花火師が一ヵ所に集まり花火を打ち揚げたことが、現在の大曲の花火大会の起源とされる。
内閣総理大臣賞が授与される花火大会は、「大曲」と「土浦」の2ヵ所だけ。花火師にとっては、この大会に出場することが最高のステータスと言われ、今では毎年70 万人を超える観客を集める日本有数の大イベントになっている。