Hariu Shun
1985年 宮城県生まれ
仙台藩ゆかりの伝統工芸として、300年以上の歴史を持つ堤焼。
今ではその技を唯一受け継ぐ仙台の堤焼乾馬窯に生まれた。
幼い頃から物作りの現場を身近に感じて育ち、陶工に憧れていたが、陶工の家で育ったからこそ、その厳しさを十分理解していた。並大抵の決意では陶工になれないと思い、地元の一般企業に就職した。
転機は、2011年の東日本大震災。「運良く生き延びられたのだから、本当にやりたいことをやろう」という決意とともに2013年夏から乾馬窯にて陶器作りに従事。
堤焼最後の窯元で、震災を乗り越え伝統の炎を守り続けている。
小さい頃から、今作業している工房でよく遊んでいました。忘れられないのは、「ろくろ」を引いていた祖父(四代目乾馬)の後ろ姿です。優しく、時に厳しかった祖父。その祖父が作陶する姿が、とてもカッコよかったんです。今でも目に焼き付いています。
でも、陶芸をやっている家で育ったからこそ、「簡単に継げない」という気持ちがありました。そのため一般企業に就職したんです。
しかし、2011年の東日本大震災があって考えが変わりました。壊れた窯や器を見て、「自分も何か手伝うことはできないか」と思いました。また、「運よく生きていられたからこそ、これからはやりたいことをやる人生にしたい」という想いが胸の中に湧き起こり、一番強くイメージしたのが小さい頃に見た祖父の姿でした。
そのとき、これからの人生、生涯作陶に捧げようと決意しました。
技術面というよりも、作陶における心構えを教わりました。
陶芸における祖父の向き合い方で印象的な言葉があります。「陶一生手習」です。
この言葉には「常に初心を忘れるな」、「挑戦する気持ちを忘れるな」という二つの教えがあります。ちょっと上手くできるようになって、調子に乗って新しいことばかりをやると基本が疎かになる。「初心(基本)」と「挑戦」の両方が大切という教えです。
陶芸の道は、想像以上に厳しく、技術の習得は簡単ではありません。同じ道を歩んだからこそ、初めて陶芸家としての祖父の偉大さを感じました。
ただ頑張っているだけでは良い器は作れません。好きで頑張ってこそ、はじめて良い器が作れるんです。偉大な祖父は、陶芸に人生を捧げました。祖父のように堤焼を愛し、惚れ抜いて、「良い器」を作れる陶工になりたいです。堤焼は普段使いの器なので、使いやすく、仙台の風景やあたたかみが感じ取れる作品を作っていけたら最高ですね。
先代である私の父は、堤焼の火を守ろうと最後の最後まで戦い抜いた一生だったと思います。父からすると峻は初孫なんです。そんな峻が「おじいちゃんのやっている堤焼をやりたい」と言った時、父はそれまで目にしたことがない満面の笑みを浮かべていました。
峻は、几帳面で真面目、応用も利くタイプです。堤焼に新たな1ページを加えてくれるという期待は大きいです。5年や10年で結果の出る世界ではありません。自分らしさを大切にしつつ、焦らずにやってほしいですね。
今では、堤焼の窯元は乾馬窯だけとなってしまいました。
焼き物に限らず伝統工芸は「一度途絶えると親子三代百年かかる」と言われるので、歴史を途絶えさせてはいけないという責任と誇りをもって伝統の炎を燃やし続けたいです。
震災の時は、ほぼ全ての器が壊れました。数か月後にようやく焼くことができるようになり、元に戻るための一歩を踏みだせたと思いました。
震災後、初めて焼き上がった時は、心の底から嬉しかったですね。焼いたものを見ていただきたい、使っていただきたい。それが地元の人に「乾馬窯は大丈夫だ」と分かってもらい、恩返しにもなると思いました。
このあたりには、時代の流れの中で、陶工を続けていくことができなくなった方々が山ほどいるんです。それを思うと、私たちは、町の皆さんに助けられて続けさせていただいているという感謝の気持ちしかありません。だからこそ、自分たちには作り続ける責任があり、堤焼の名に泥を塗らないよう、未来に繋げていかなければならないと思っています。
毎日、工房には笑いがあり、明るい雰囲気の中、乾馬窯の皆さんは土と向き合っていました。しかし、東日本大震災で4つの窯は倒壊、器の95%が割れる壊滅的な被害を受けたそうです。
かつては宮城県沖地震の際も甚大な被害を受けるものの、どんな状況にさえも立ち向かい、そのたびに乗り越えてきました。そのパワーの源は、ただただ「良い器を皆さんに使ってほしい」という思いだと知りました。
器には作り手の気持ちが映るといいます。堤焼には、自分たちが被災しながら、他人を思いやる、優しい気持ちが込められています。
今回、取材した峻さんが作る器は、温もりを感じるとても優しい器でした。
かつて堤町(現・仙台市青葉区)に窯場があったことから、その名がついた。
江戸時代の元禄年間(1688~1704年)ごろ、下級武士達の副業として開窯したと伝えられている。茶道に通じた仙台藩主の器などを作る御用窯としてはじまり、後に甕や鉢、皿をはじめとする庶民の生活雑器を生産するようになった。
特徴は、粗く優れた地元の土を活かした素朴さと、黒と白の釉薬を豪快に流し掛けた「海鼠釉」。
最盛期には30軒を数えた窯も、今では「堤焼乾馬窯」が唯一の窯元となり、丸田沢(仙台市泉区)の緑豊かな環境に場所を移して伝統と技を守り続けている。