Kawahara Takakuni
1981年 富山県生まれ
幼い頃、千葉県に転居。高校卒業後、両親とともに故郷の富山県に戻る。
プロサッカー選手を目指しJFL(日本フットボールリーグ)で活躍するも、22歳の時にケガで断念。
そんな折、「 蛭谷和紙 」の後継者がなく、伝統が途絶えそうになっていることを知る。
故郷に根付いた伝統を守りたいとの想いから、蛭谷和紙最後の職人であった米丘寅吉さんに弟子入りを志願した。
だが、2009年春、師匠米丘さんが他界。その後は、たった一人で伝統を守り続けている。
「郷土の文化が途絶えるのはもったいない」、その一心でこの道に進みました。
「もったいない、もったいない」と言う人は多いのですが、やっぱり言うだけではなく、僕は行動で示したいと思いました。「自分ひとりが動くことで、蛭谷和紙の歴史を守ることができるのだったら、やってみる価値がある」と感じたんです。
今は、時代の中ですごい岐路に立っていると思います。先人たちが残してきてくれたもの、それを土台にして、プラスアルファの価値を乗せていければ良いですね。
紙は色んな人達の意志でできていると思うので、理屈じゃない部分も大切にしていきたいです。
師匠は高齢のため、一度は蛭谷和紙の歴史に幕を下ろそうとしていたんです。
しかし、僕の「跡を継ぎたい、歴史を守りたい」という気持ちを知って、再び、工房を立て直してくれました。師匠が亡くなってからと言うもの、蛭谷和紙職人は僕一人になってしまいました。
師匠は人間らしいというか、すごく、感情豊かな人でしたね。師匠から受け継いだ一番大きいものは、心(ハート)の部分です。
蛭谷和紙は、たくさんの人々の意志で残ってきた、誇るべき文化だと思います。産業とはまた違いますが、ここには文化が残っています。絶対に途絶えさせたくないですね。
山へ入り 楮 を刈り取ったり、トロロアオイを育てるため畑仕事をしたり…それは私たちが「和紙職人」に抱いていたイメージを覆すものでした。
「紙漉きは工程のほんの一部。上質な紙を作るには、材料を育てたり、丁寧に処理したりすることがとても大事で、この昔ながらの製法を守ってこそ蛭谷和紙なんです」、と語る川原さん。
しかし、口で言うほど簡単ではないことは明らかです。
日々の重労働だけではなく、歴史を受け継ぐ責任、孤独との闘い…様々なものを一人で抱えながら前に進む川原さんは本当に強い、そう思いました。
日本には和紙の産地がたくさんありますが、「蛭谷和紙」という特異な和紙と、その唯一の職人に出会えたことを自慢したくなるような、そんな取材となりました。
「蛭谷和紙」は、富山県内の「八尾和紙」、「五箇山和紙」とともに「越中和紙」と総称され、国の伝統的工芸品に認定されている。400年近い伝統があると言われ、かつては100軒余りの工房があった。
天然の材料で丁寧に漉き上げた蛭谷和紙は、1,000年以上保存できると言われるほどの優れた耐久性と、強靭かつ柔らかな特性が際立つ。
材料となるトロロアオイを育てることから紙漉きまで、すべての工程を昔ながらの手作業で行う和紙の産地は、今やほとんどない。