Fujino Junichi
1983年 滋賀県生まれ
400年の歴史を誇る「雲平筆」の製法を〝一子相伝〟により代々継承してきた「 攀桂堂 」。
その由緒ある家系に生を受ける。幼い頃から書の腕を磨き、書道の先生になる夢を抱いていた。
しかし、夢か伝統の継承かを悩んだ末、伝統を継ぐ筆師になることを決意。
現在は父であり師匠でもある第十五代・藤野雲平さんのもと、伝統と歴史を継ぐため努力を積み重ねている。
幼い頃から書道が好きで、書道の先生になるために大学に進学したのですが、卒業直前になっても、書道の先生の募集はありませんでした。
その頃、母から「家で筆作りの勉強をしてみないか」と声を掛けられ、結果的には、このことがきっかけとなって、書道の先生という夢を諦め、雲平筆の筆師になると決めました。
もちろん、筆師になることに迷いはありました。でも、自分がやらないと、400年も続いてきた雲平筆の歴史が途絶えてしまうのは悲しいと思い決心したんです。
そして、大学を卒業して、まずは父の知り合いが広島でやっている熊野筆の会社にお世話になり、3年間、筆作りの基礎を学びました。この修業時代は辛かったですね。何もかもが初めてで、全てが上手くいかず、本当に辛かった。
その後、家に戻って、父から雲平筆の作り方、技術を学んでいます。
師匠であり、父親でもある。それ故に、難しいところもありますが、今はこの仕事を継いで本当に良かったと思っています。
やっとですが、筆を一本一本と作る毎に、この筆の魅力が分かってきました。
そして最近は、自分が作った筆を使った方が、「使いやすかった!」とおっしゃってくれることもあり、そんな感想を聞けたときは、本当に嬉しいです。
と、同時に、400年以上にわたって代々受け継がれてきた伝統と技術の「重み」を感じるようになりました。
今は、この筆を次の世代にきちんと繋げていきたい。そのためにもしっかりとした技術を身に付けたいと思っています。
息子に家業を継いでほしいと一度も言ったことはありません。私も先代(第十四代)から継いでほしいと言われたことはありません。それでも、代々継がれてきた「重み」だけは感じてほしいと思っていました。
ただ、正直言うと、本人自らが「継ぐ」と言ってくれるのを待っていました。雲平筆は一子相伝なので、基本的には弟子は取りません。「もし、息子が継がない…」となった場合には、外から弟子をとらざるを得なかったかもしれない、そう考えると…継いでくれたこと嬉しく思っています。
今では一通りの仕事を一人でできるようになり、作った筆は商品として納めていますので、一人前と言えるでしょう。元々、几帳面な性格なので、良い仕事をしていると思います。
取材が終わってから数か月が経った頃、純一さんと再会し、「最近嬉しかったことはありますか?」と聞いてみました。すると表情が一気に笑顔になり、「先日、家に帰った時、上の子が一人で、この番組を見ていたんです。そして、お父さんの仕事、やりたいって言ってくれたんです。本当に嬉しかったですね。」そう話してくれました。
反対に、「何か困ったことはありますか?」と聞くと、少し複雑な表情になり、「実は下の子が、お兄ちゃんのマネをして、僕も筆師になる!って言い始めているんです。」と。そして「雲平筆、一子相伝なので…」と笑う純一さん。
先人たちの手によって、400年間絶やすことなく守り続けられてきた「雲平筆」の伝統と技は、こうして父から子へと受け継がれ、次の世代へと伝えられている、そう感じたひと時でした。
1200年前、中国から伝わった「巻筆」の製法を日本で唯一継承し、製造されている由緒ある筆。歴史と伝統を誇る「雲平筆」の製法は〝一子相伝〟で受け継がれ、伝承者は代々〝藤野雲平〟を襲名する。
今から約400年前の1615年、初代・藤野雲平が京都において筆工を開き、五代目の時に「 攀桂堂 」の屋号が付けられた。
第十四代・藤野雲平は、1966年に滋賀県の無形文化財に認定され、1979年には国宝・正倉院からの依頼により、腐食が進んでいた日本最古の筆「 天平筆 」の複製にあたった。高い評価を得た複製の筆は、現在も正倉院に納められている。