Fujioka Hiroharu
1977年 三重県生まれ
伊賀くみひもの老舗「藤岡組紐店」の長男として生まれる。
大学在学中、就職先を真剣に考えるようになった頃、生まれて初めて家業の「くみひも作り」に目を向ける。
それ以降、徐々にくみひも作りの奥深さ、魅力にひかれていき、「伊賀くみひも」の伝統工芸士である母に弟子入りすることを決意。それから10年、尊敬する師の背中を見ながら、伝統的な手作りの技法を受け継ぐための日々を送っている。
私にとってくみひも作りは日常の光景だったので、小さい頃、特別興味はありませんでした。
両親からは一度も、「跡を継ぐように」と言われたことがなく、私自身、大学を卒業したら会社勤めをする考えでした。
そして、就職先を探す時期となり、自分のこれからを真剣に見つめ始めた頃、「自分は何がしたいんだろう?」「どんな仕事に就けば、充実した毎日が送れるんだろう?」と、自問自答を繰り返す毎日を送っていました。
そんな中、久しぶりに実家に戻った時、ふと糸を組んでいる母の姿が目に止まったんです。それまで、あまりに身近で、当たり前だった日常の光景が違って見えました。糸を組む手さばき、真剣な眼差し、母がこれまで培った経験による技を目の当たりにし、圧倒されてしまったんです。
それ以来、くみひもの歴史や伝統、くみひも職人という仕事について母と話をすることが徐々に増えていきました。知れば知るほどいかに難しく、どれだけ奥深いものかが分かっていき、同時に、「私もやってみたい、母のような職人になりたい」との気持ちも強くなってきました。
自分のこれからのこと、仕事のやりがいなどを考えれば考えるほど、「くみひも職人しかない」と思うようになり、意を決して母に弟子入りを願い出たんです。
弟子入りしてから10年になりますが、まだまだ、「日々勉強」です。
母からは、「技術だけに走ってはいけない。どんなに素晴らしいものを作っても、それが職人の独りよがりでは何の意味もない」と、よく言われています。
たとえば帯締めは脇役であり、主役の着物や帯を引き立てなくてはなりません。そのため、見た目はとても大切です。しかし、身に着ける物である以上、きちんとした実用品としての機能、「締め心地が良い」と使う人に思っていただけなければ、いい帯締めとは言えないんです。
使う人の締め心地を想像しながら糸を組んでいくのは、とても難しいのですが、母は完全に見極めているかのように、早く、しかも正確に組んでいくことができます。複雑な柄であってもです。私自身が経験を積めば積むほど、母のすごさを肌身で感じます。
今は「美しさと使いやすさ」のバランス感覚を母から学び、一歩でも追いつきたいと、取り組んでいます。そして、いずれは自分なりの技術を身に付け、それを生かしたくみひもが作れるようになりたいと思っています。
厳しい言い方ですが、全てにおいて、「まだまだ」です。
私がこの世界に入った時は何もありませんでしたから、全て手探りで身に付けてきました。その分、ここに辿り着くまで時間はかかりましたが、たくましくなれたと思います。
それに比べて潤全の場合は、長年培ったくみひもの技術や情報が周りにあり、それを利用することができますから、悩むことは少ないのですが、その分身に付くものも少ないんです。
もっともっと頭を使って、目の前にあるものを当たり前と思わず考えて欲しい。そして、少しずつでも良いので、確実に自分のものにしていってもらいたいです。
城下町の風情が色濃く残る伊賀の街。初めてお会いした時は着物姿で迎えていただき、その姿は街並みに優しく溶け込んでおり、潤全さんのとても穏やかな眼差しと口調が、和の装いをより一層引き立てていました。
しかし取材を始めて、くみひもへの想い、職人になった決意、母・恵子さんについて語っていただくと、その言葉の一つひとつから「覚悟」のようなものが伝わり、何か引き込まれるような感じを覚えました。
明確な言葉はありませんでしたが、潤全さんの「受け継ぎ、守っていく」という覚悟がそう感じさせたのかもしれません。
伊賀くみひもは三重県伊賀市の伝統的工芸品で、その技術は奈良時代に仏教と共に大陸から伝えられたとされ、袈裟などに用いられてきた。
鎌倉時代には武士の武具、室町時代には茶道具の飾りなどにも広く活用され、さらに江戸時代に入ると技術もより向上し、鎧や刀剣の飾り紐、羽織紐など種類も増え需要が急増した。
その後、武士の終焉とともに衰退していくが、明治後半より高級帯締めとして広く知られようになる。
伊賀のくみひもは、絹糸を主体に、金銀糸などの組み糸を使用し、特に手で組み上げる「手くみひも」は美しい独特の風合が魅力である。