Nakazawa Eri
1982年 秋田県生まれ
幼い頃から物作りが大好きで、短大では建築を専攻。
そんな中、「木材」に興味を抱くようになり、ずっと身近にあった「曲げわっぱ」に魅せられ、卒業を機に職人になることを決意する。
そして数ある工房の中で、最も心惹かれる製品を作っている、「柴田慶信商店」の門を叩く。
入門後は、師匠である柴田慶信氏のもと、伝統の技を受け継ぐため、研鑽の日々を送っている。
子どもの頃は一人で遊ぶことが好きでした。絵を描いたり、粘土遊びをしたり、そして雪が降れば雪で動物を作ったりと、自分の頭の中にイメージしたものが実際に形になっていくのがとても楽しかったんです。
そして、高校に入学する頃には、「将来は物作りの仕事に就きたい」と思うようになっていました。その後、進学した短大では建築を専攻し、日々さまざまな資材や建材に接していたのですが、その中で最も興味を抱いたのが「木材」でした。
木の持つ温かみ、美しさ、そして、人の手によっていろいろな形に変化する面白さなど、「木材」の奥深さに触れるうちに、「木を扱う職人になりたい」との思いを強く抱くようになりました。そんな時、ふと目に留まったのが、家にあった「曲げわっぱ」でした。
今まで、当たり前のように自分の周りにあって、気にかけたことなどありませんでした。それくらい大館の人間にとって、「曲げわっぱ」は身近な日用品なんです。
でも、あらためて手に取ってじっくり見てみると、実にさまざまな発見がありました。美しい曲線、〝しとっ〟とした手触り、何より作り上げた職人の思いが伝わってきました。そして、「自分の故郷にこんなに素晴らしい物があったのか」と感動し、「曲げわっぱ職人」になることを決意したんです。
師匠(柴田慶信氏)に入門してから10年が経ちましたが、まだまだ未熟者です。
今でも毎日、分からないことがあったり、新しい発見をしたりします。自分では師匠と同じようにやって、同じようにできているつもりでも、仕上がり具合を比べると、まるで違うんです。師匠が作り上げたものには遠く及びません。
今は、一人でも多くの人に「曲げわっぱ」に関心を持ってもらい、より多くの人に日用品として長く使っていただけるよう丁寧な仕事を心がけ、いずれは、自分しかできない製品を作り出せる職人になりたいです。そして、師匠に少しでも近づけたらいいですね。
「弟子入りさせてほしい」と私のところにやってきた彼女を見て、「職人になりたい」という強い意志、決意のようなものを感じました。しかし私は断りました。もっといろいろな工房を見て、ちゃんと考えるように勧めたんです。
後日、彼女は再びやってきて、あらためて弟子入りを志願しました。そして「どうしてもここじゃないとダメなんです」とその思いを熱く訴えてきました。そんな彼女に接し、「これは本物だ」と確信して弟子入りを許しました。
その時の彼女の熱意は、10年経った今でも冷めることはありません。それに技術の吸収も早く、とっても器用です。なにより、「曲げわっぱ」がいかに好きなのかが伝わってくる製品を作り上げます。
これからもその思いを大切にして、私とは違う、自分なりの技術を身に付け、「仲澤恵梨ならではの製品」を作っていってほしいです。
弟子入り当時の仲澤さんにとって、師匠は緊張でまともに喋ることもできない存在だったそうです。
毎日のように怒られていても今日まで続けてこられたのは、ある人から聞いた師匠の言葉。
仲澤さんが弟子入りしてから数年が経った頃、師匠はその人にとても嬉しそうな顔で、「あの子は若いけど、とても頑張っている。少しずつだけど、良いものを作れるようになってきた。あの子を弟子にして本当に良かった」と話したそうで、それを聞いた仲澤さんは、うれしくて涙が止まらなかったそうです。
成長を続ける若き職人は、偉大な師匠の背中を必死に追いかけていました。
「曲げわっぱ」は、杉などの板を曲げて作られる伝統工芸品。弁当箱、おひつ、お盆などの実用品がその代表である。
「大館曲げわっぱ」は、藩政時代に大館城主の佐竹西家が、この地域の豊富な秋田杉を利用した武士の内職として推奨したことにより広まったとされる。良質な秋田杉と丁寧な作りは評判を呼び、製品は新潟、関東などに数多く運ばれ、「大館曲げわっぱ」の名は広く浸透した。そしてその伝統的技法は江戸時代末期から近代にかけ、優秀な職人たちによって受け継がれてきた。
一時はプラスチック製品に押されて職人が減少したものの、現在の本物志向の風潮に相まって、弁当箱や、おひつなどの愛好者が増加している。