Kamikawa Soutatsu
1980年 東京都生まれ
祖父・父ともに銀師の家に生まれる。
父 宗照氏の高度な技術を間近に見て育ち、小学生の頃には銀師になることを意識し始めていた。
その思いは自身の成長とともに大きくなり、高校卒業を機に、「父のような銀師になりたい」と、宗照氏に弟子入りを志願。銀師としての一歩を踏み出した。
そして2011年には伝統工芸士の認定を受け、さらなる高みを目指し修練の日々を送っている。
幼い頃、僕の遊び場は父の仕事場でした。何に使うか分からない道具がたくさんあって、それらが僕にとって一番のおもちゃだったんです。
そこで働いている父の姿を見ていて、「すごいなぁ」と感じたのが銀師になろうと思ったきっかけですね。銀を打つ表情、手さばき、そして、後ろ姿。すごく格好よくて、憧れの存在でした。
下町なので友達には僕のような職人の家に生まれた子もいましたから、「父と同じ職人になる」といった話をすることもありました。幼い頃から銀師になることを意識していたのは、土地柄も影響しているのかもしれません。
そして、年を重ねるにつれ、「自分も父のようになりたい、銀師になりたい」という思いが強くなり、高校生の時から少しずつ仕事に触れさせてもらって、卒業を機に正式に弟子入りを願い出ました。
父は言葉で教えるタイプの職人ではないので、技を見て、真似しながら自分のものとしていくしかありません。ただ、父からは「失敗したものをよく見なさい。よく見て何が原因か突き止めれば、それは単なる失敗じゃなくなる」という言葉をいただきました。この言葉を胸に自分なりに試行錯誤を重ねています。
銀器自体は本質的に江戸時代から変わりません。時代がどんなに変わっても、後世に残していかなければなりません。僕は、伝統を守りながらお客さまのさまざまな要望に応えていきたいと思っています。
また、銀器は実用的な物であっても美術的な要素が必要ですから、実用品と美術品双方の要素をいかに融合させ、全体のバランスをとるか、常に熟慮しています。
祖父が作った銀器を大切に使っていただき、今でも時折、直しに来られるお客さまがいます。とても、ありがたく思うのと同時に、祖父の偉大さを改めて痛感します。いずれ先達のように長く愛される銀器が作れるよう、技術を磨いていきたいと思っています。
私の子ども4人全員が銀師になりましたが、誰にも「家の仕事を継いでほしい」と言ったことはありません。無理矢理やらせても続きませんし、いい物が作れるはずもありません。
銀師に必要なのは、本人のやる気。どれだけ銀器を愛しているか。そしていかに銀器作りに自分なりの強いこだわりを持って挑めるかなんです。
宗達は呑み込みが早く、良い意味でしつこく、自分が納得するまでやり続けているようです。
私や兄姉達と同じことをする必要はありません。このまま自分なりの銀師を目指せばいいと思います。
4人の子どもそれぞれに個性があり発想も異なります。時代の変化を捉えながら、お客さんのさまざまな要望に応えていくためには、全員で力を合わせていかなければなりません。
宗達には、その重要な一角を担ってほしいと思っています。
撮影の合間、師匠から「飲み比べてみてください」と缶ジュースを差し出されました。
まず缶のまま一口飲み、次に銀器に注いで一口いただくことに。すると銀器でいただくと飲み物の冷たさがすぐ口の中に広がり、また、心なしか味も美味しく感じたのです。
「違いますね!」 私の言葉に師匠は笑顔で、「銀イオンの効果で飲み物がまろやかになるんだよ」と返し、宗達さんも、「銀器は戸棚に飾ってもらってもいいけれど、使ってみないと分からない良さがたくさんあるので、どんどん使ってほしいですね」と繋げました。
銀の魅力について楽しそうに話す宗達さんから、溢れんばかりの情熱が伝わってきた瞬間でした。
銀器は日本で古くから用いられ、平安時代の文献に銀の食器類が載せられており、室町時代に各地で銀山が発見されると、銀製品が本格的に作られるようになった。
その後、一般に銀製品が使用されはじめたのは江戸時代に入ってからで、調度品、かんざし、キセルなどに銀が使われた。
銀器職人は「銀師」と呼ばれ、当時、銀を扱う鋳造所「銀座」が江戸だけに制限されると、各地の銀師も江戸に集まり、さまざまな銀製品を生み出していった。
その卓越した技術を受け継いで現在に至るのが「東京銀器」であり、国の伝統的工芸品に指定されている。