Nakamura Kano
1980年 山口県生まれ
山口県岩国市に生まれ、小学生の時、京都に移り住む。父が仏像を制作する「仏師」であるため、截金を目にする機会があり、その美しさに惹きつけられた。
その後、截金への思いを抱いたまま、美術系の短大に進学したものの、実際に截金の仕事に就くことはできないだろうと考え、別の職を選んだ。
しかし、どうしても截金への憧れを捨てきれず、25歳の時、截金師である江里 佐代子氏に弟子入りを志願。以来8年間にわたり、師の思いや技を受け継ぎ、後世に截金の素晴らしさを伝えていくための技術習得の日々を送っている。
中学生のとき、仏師である父が江里佐代子先生の作品の図録を見せてくれたのがきっかけです。
幼い頃、父の仕事場(平安佛所)へ遊びに行った際、佐代子先生にお会いしたことがあるのですが、実際にどのようなものを作っているのか、その図録を見て初めて知りました。
「どうしたらこんなすばらしい作品を生み出すことができるのだろうか」と感銘を受け、截金に憧れるようになったのです。ただ、截金はとても限られた世界の仕事ですから、私がその仕事をすることは無理だろうという諦めもありましたので、短大卒業後は別の仕事に就きました。
しかし、その後も佐代子先生の作品を目にする機会が幾度かあり、その都度、いかに自分が截金に惹かれているのかを気付かされました。
そして、25歳のときに意を決して佐代子先生に弟子入りを願い出ました。
佐代子先生は、截金の師匠であることはもちろん、時には母親のように接してくださり、私の心の支えでしたから、佐代子先生が亡くなられたときは、この仕事を続けていけるのか不安に押しつぶされそうでしたが、康慧先生や先輩方が未熟な私を支えてくださいましたし、何より截金という仕事が好きという気持ちが変わることはありませんでした。
今は「截金の技術を絶やしてはいけない」という佐代子先生の遺志をしっかり受け継ぎ、先生に教えていただいたことを少しでも高めていきたいと思っています。
また、佐代子先生はとても遊び心がある方で、それが作品にもよく表れていて、誰も真似することができない素晴らしい発想を形にしていました。私はまだまだ手探りで勉強の日々ですが、守るべき伝統をしっかり受け継ぎながらも、先生のように柔軟な発想を身につけ、いつかは私なりの截金を作りたいと思っています。そして、少しでも多くの人に截金の素晴らしさを知ってもらい、次の世代に伝えていきたいです。
技術習得にとても意欲的に取り組んでいます。
弟子入りからわずか3年で師匠である佐代子が亡くなったので、精神的にもつらかったと思いますが、周りの支えもありよく頑張ってくれました。
佐代子も自分の体調とは関係なく、普通より早く彼女に様々な技術を教えていましたから、それだけ彼女に期待していたのだと思います。そして、それに応えるように中村さんも日々成長していきましたし、今もちゃんと成長を続けています。
これからも、できるだけ多くの古典作品に接し、そこから学びながら、より創作的な力を身につけてもらいたい。そして、いずれは佐代子とは違う截金を生み出してほしいと願っています。
中村さんの師匠で人間国宝である江里 佐代子氏は、独創的でかつ卓越した技術により茶道具や工芸品に見事なまでの截金を施し、確固たる地位を築きました。
佐代子氏が亡くなった後も、彼女は佐代子氏を心の支えに、師に追いつこうと懸命に努力しています。
そんな彼女に、康慧氏は今後の課題として「江里佐代子と同じ作風はやめるように」と伝えたそうです。
そこには、完成されたものに頼らないという向上心、そして佐代子氏の作品がいつまでも色褪せないように、という深い愛情もあるように思います。
新たな作風を生み出すのはきっと想像以上に大変なことと思いますが、努力を惜しまず仕事に臨む姿は、「彼女ならきっと大丈夫」、という期待を抱かせてくれました。
截金とは、薄く延ばした金やプラチナなどを細く切り、それらを貼り付け、様々な文様を表現するもので、仏像や仏画などを飾る技法として用いられた。
截金は仏教の伝来とともに伝えられ、平安時代に隆盛を極めたが、その後の仏教美術の衰退などから、江戸時代には限られたごく少数の職人に伝承されるのみとなり、截金の技法が工芸作品に生かされるようになったのは近代になってからのことである。