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#049

東京都江戸切子職人
三田村 義広

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江戸切子えどきりこ職人
三田村 義広

Mitamura Yoshihiro
1978年 東京都生まれ

大学在学中に「ものをつくる仕事がしたい」と調べている中で、後に師匠となる江戸切子職人 根本幸雄氏の作品に出会い、感銘を受け弟子入りを決意し願い出る。

入門後、師の下で8年の修行をし、2010年に晴れて独立。

独り立ちした今も更なる高みを目指し、研鑽の日々を送っている。

江戸切子は江戸時代後期、ガラス問屋の加賀屋久兵衛が
西洋のカットガラスを手本にしてガラスの表面を削ったのが始まりと言われる。

三田村 義広さん インタビュー
「江戸切子職人」になろうとした、きっかけは?

父が日本画など芸術関係の出版の仕事に就いており、子供の頃からよく美術館に連れて行ってもらいました。そのため、自然と様々な作品が目に焼き付き、人の手によって生み出される「もの」を、よりに身近に感じていたのかもしれません。

子供の頃より漠然とあった「ものづくり」への思いを、大学に入る頃には具体的に将来の自分の仕事として考えるようになりました。

そして、日本の様々な伝統工芸品を調べている時に、ある江戸切子の作品に出会い、今まで受けたことのない感動を覚えたんです。それ以降、たくさんの江戸切子を見てきましたが、やはり最初の感動が忘れられず、その作者である根本幸雄さんに弟子入りしたいと入門を願い出ました。

最初は断られましたが、諦めきれず何度も思いを伝えました。その結果、週3日だけ工房に来ることを許されました。そして、その半年後、正式に弟子入りを許していただきました。

より高度な技術が求められる作品作りに挑む。
黒のクリスタルガラスは割り出しの線が見えづらく、作業を一層困難なものにする。

どんな「江戸切子職人」になりたいですか?

8年の修行を経て独立をさせていただきましたが、まだまだ修行中の身であって、一人になって初めて分かることも多くあり、日々勉強です。修行時代に一度だけ息詰まって、「このまま職人を続けても大丈夫なのか」と不安にかられた時期がありました。その時、自分を見つめるために休みをいただき海外の友人を訪ねました。しばらく何もかも忘れ冷静になると、しだいに切子に対する思いが強くなり、「やはり自分には江戸切子しかない」と気づかされました。その時の思いを忘れず、江戸切子と向かい合っていきたいと思います。

また、「自分は作品ではなく商品を作っているんだ」ということも心がけています。お客さんあってのことです。多くの人に手にとってもらい、これが欲しい、これを使いたいと思ってもらえるような商品を作り、そしていずれは、「これが三田村の商品だ」と分かってもらえる自分なりの作風ができればと思っています。

三田村 義広さん
江戸切子職人
三田村 義広さん
先輩職人 根本 達也さん
先輩職人
根本 達也さん

先輩職人 根本 達也さん
インタビュー

三田村さんは、どんな職人ですか?

ある日、いきなり父の弟子にしてほしいと言ってきました。父は最初、断っていましたが何度言っても帰りませんでした。その強い思いは側にいた私にも伝わりました。

工房に通うようになってからも、その姿勢は変わらず、決して器用ではないけれども真面目にこつこつとやってきたのがよかったんだと思います。

独立した今は、すべて自分でやらなければいけません。「自分は良いものをつくっています」だけではお客さんには届きません。いかにお客さんが満足する商品を作り、多くの人に見てもらえる場を開拓していくかが大切なんです。これまでの彼の取り組みを見てきますと、きっと大丈夫だと思います。

私も、まだまだ父には及びません、場所は違えども兄弟弟子としてこれからも互いに切磋琢磨していきたいと思います。

取材を終えて

三田村さんの趣味は音楽とバイク、夏になると野外フェスティバルに繰り出すという。家から工房へは自慢のビッグスクーターで通い、いつかはハーレーに乗りたいという。

そんな三田村さんから休憩中にある思いを聞きました。

ある日のこと、店頭で三田村さんの江戸切子を手に取った一人のお客さんがグラスを触り、「これはとっても良いものですね!」と言ってくださったそうです。実はその方は目が不自由で、手にとった感触で判断してくださったそうです。

それを聞いた三田村さんは、「見た目だけではなく、人が使うことをもっと意識して丁寧に仕上げていこう」と強く思ったそうです。その話を聞き、あらためて三田村さんが作った切子を手に取ると、そんな彼の強い思いがグラスを通して伝わってきました。

江戸切子

江戸切子

切子は、ガラスの表面に砥石などを使って様々な模様を切り出す技法で、江戸切子は江戸時代後期に、日本橋でガラス問屋を営む加賀屋久兵衛が西洋のカットガラスを手本にガラスの表面を削ったのが始まりとされる。

元来、透明なガラス地にカットを施した製品が主流だったが、やがて透明なガラス地に色ガラスを被せカットした「色被いろきせ」の製品が主流となっていった。「色被せ」の製品は色地の部分と透明の部分の対比がはっきりとして鮮やかであるのが大きな特徴。