Hashiyama Hiroshi
1982年 福岡県生まれ
福岡県八女市で代々続く石灯籠職人の家に生まれる。
プロ野球選手を夢見て、野球一筋の生活を送っていたが、大学在学中、祖父や父が作る石灯籠の魅力に惹かれ、自分もこの伝統、技術を受け継ぎたいとの思いを抱くようになる。
そして、卒業を期に意を決し父に入門を志願。以後、師匠となった父の下で八女石灯籠の優れた技術の習得、継承を目指し、研鑽の日々を送っている。
代々続いてきた家業ですから、幼い頃から当たり前のように自分の周りには石灯籠があって、もちろんそれを作る祖父や父の仕事も見てきましたし、自分が子供の頃は、町に今よりたくさんの石灯籠職人さんがいて、町のあちこちでその仕事を目にすることができました。
でも、自分が職人になるとは、思っていませんでした。
特に、父からは家業を継ぐよう言われたことはありませんでしたし、小学校の頃から野球が好きで、毎日野球の練習に明け暮れていて、できることならプロ野球選手になりたいという夢を持っていましたから。
大学でも野球部に所属し熱心に打ち込みましたが、自分の力の限界を感じプロへの道は諦めました。
そんな時期だったと思います、石灯籠作りに打ち込む父の姿に目が止まり、その技術を真剣に見つめていました。初めてでしたね。
そして、父の技術の凄さを実感し、これまで当たり前の光景、気にも留めていなかった石灯籠作りが、とても魅力的に思えるようになっていき、大学卒業を期に父に石灯籠職人になりたいと申し出、弟子入りをしました。
父に入門してから8年になりますが、まだまだ手探り状態です。子どもの頃から石と接してきて馴染みはあるものの、やればやるほど、「石の奥深さ」を感じます。
まだまだ作業の正確さ、速さ、すべてにおいて父の足元にも及びません。今は、「八女石灯籠」の伝統的な技術の習得と、師匠(父)ならではの技を盗み、確実に身に付けたいと思っています。
やはり経験を積んだ職人さんが作り出す石灯籠は、その人ならではの色合いが見事に表現されていますから。私もいつかは、「私ならではの作品」を作り出せるよう取り組んでいます。
野球漬けの毎日だった息子から、ある日突然、「職人になりたい」と申し出を受けた時は、とても驚きました。
上の兄二人はすでに別の道に進んでいましたし、石灯籠の仕事の数も昔ほど多くなく、裕司もこの道ではなく会社勤めするだろうと覚悟していましたので、実際その時は表情に出しませんでしたが、内心すごく嬉しかったですね。
そして、私の師匠である父(裕司さんの祖父)は「八女石灯籠」の伝統と技術を将来に伝えたいと強く願っていましたから、裕司から職人になりたいとの申し出があったことを私以上に喜んでいました。本当に嬉しかったようです。
「八女石灯籠」の職人になるためには最低10年かかります。入門して8年経った裕司は今節目の時期かもしれません。前は力任せの作業が目立ち、余計な力がかかることで上手くいかないことも多くありましたが、今はその「具合」が自分なりに分かってきたように見えます。しかし、適当なところで満足することなく、修練を続けて欲しいと思っています。
取材中のある日、何時ものように家に伺うと、親子は近くの田んぼにいると教えられました。
橋山家は代々、石灯籠職人と農家を兼業しており、この日、二人は米の収穫に追われていました。
休憩中、裕司さんが目の前に広がる田んぼに目を向けながら、「石灯籠を作るのと米を作るのは同じだと、最近強く思うようになったんです。美味しい米を作るには、その基になる田んぼの状態をきちんと把握して、最も良い状態に保たなければなりません。少しでも手を抜くと、その後どんなに丹精を込めても決して美味しい米はできません。石灯籠も同じです。最初の石の選び方、切り出し方がとても重要で、それが仕上がりに大きく影響します。そして、この作業が一番難しいことも身に染みて感じています。」と、額の汗を拭いながら、穏やかに語ってくれました。
続けて、「米も、八女石灯籠も、ここ八女に代々受け継がれてきた大切なものですから、これからも真剣に取り組んで、次代に伝えていきたいと思います。」と話す姿に、彼の強い信念を見たような気がしました。
八女石灯籠は、福岡県八女市長野地区で採れる、阿蘇火山の凝灰岩から作られる石灯籠。
八女で採れる凝灰岩は軟質で、彫刻が行いやすく、かつ軽量で耐火性、耐寒性に優れているため、江戸時代の初めから石灯籠作りが盛んであった。
八女を代表する石灯籠は「自然木型灯籠」で、凝灰岩の岩肌を生かした独特の風情を醸し出し、土台となる部分があたかも自然木を思わせるものである。