Kubo Tatehiro
1982年 奈良県生まれ
Kubo Sachiko
1983年 奈良県生まれ
建裕さんは代々茶筌づくりを生業とする家に生まれ、幼い頃から高山茶筌の伝統工芸士だった祖父の仕事を見て育つ。大学在学中に家業を継ぐことを決意し、茶筌師の道を歩みはじめる。
妻の幸子さんは、高校卒業後、バスガイドの職に就いていたが結婚を機に退職。その後、茶筌師に。二児の母でもあり、育児・家事と茶筌づくりを両立している。
小さい頃からいつか跡を継ぐのだろうな、となんとなく思っていました。大学に進学したものの、祖父が高齢だったので、「今すぐ始めないといけない。大学に4年間行くよりも、その時間をおじいちゃんから茶筌を学ぶことに費やしたい」、そう思いました。自分が跡を継がないことで代々続いてきた仕事を終わらせたくなかったのです。
大学を辞めることを家族は反対しましたが、祖父一人だけは賛成してくれて、この道に進むことになりました。
重要なのは道具である包丁(小刀)を研ぐこと。それができないと仕事になりません。
始めた当初、祖父は私の作業の「音」を聞いていました。竹を削る際の包丁があたる音なのですが、時々「今の音いいぞ!」と。茶筌づくりの良し悪しは音でわかるのです。
今もまだ「音」に納得しない日もあるので、いい日、悪い日のムラが無いようにしたいですね。
よく「同じことをやっていて飽きないの?」と聞かれますが、竹は一本一本性質が違うので、それをどう料理しようか考えるのが楽しいですね。
以前は、「バスガイドをしながら、お客さんに高山茶筌の魅力を伝えたい」というのが一つの夢でしたが、私自身が茶筌のことをあまり知らなかったので、この家で茶筌づくりをすることで理解したいと思い、バスガイドを辞めました。バスガイドの仕事も魅力的だったのですごく悩みましたが、主人と二人で茶筌をつくり、色々な人に高山茶筌を知ってもらいたいという夢に変わりましたね。
久保夫妻は9歳と6歳の子供を育てながら 高山茶筌づくりに励んでいる。
建裕さんは今回の取材をきっかけに、6歳の遼真くんに「パパの仕事どう思う?」と聞いたそうです。すると、「毎日、寝やんとむっちゃ頑張ってるから、パパもママもスゴイと思う。特にパパがすごい!だってメッチャぶっとい包丁で竹カンカンするから!」とはじめて言われたとか。
数日後、家族でお茶を飲んでいる様子を撮影させていただいた際、スタッフが遼真くんに「将来何になりたい?」と、答えを期待する質問をすると、「悟空になる!」ときっぱり。
まさかの答えが家族の皆さん、スタッフ全員の大きな笑いを誘った。
一子相伝の秘伝は、500年の時を経て、新しい形へと変化して継がれていくようだ。
茶道で茶を点てるための道具。作法は流派によって異なるが、先の曲がった茶筌で点てるお茶は、きめ細やかな泡立ちから、飲んだときに抹茶の苦みを緩和し、まろやかな風味を醸し出すという。
500年前の室町時代から高山の地に受け継がれており、茶筌の国内生産量は奈良県が9割を誇る。
通常、茶筅は「筅」と書くが、高山茶筌では「筌」の字を使う。これは「竹が持つ全ての性質を生かす」ことから名付けられている。