Yamamoto Koji
1988年 石川県出身
Yamamoto Shuhei
1989年 石川県出身
九谷焼窯元、加賀陶苑の当主 山本芳岳の次男と三男として生まれる。
高校卒業後、兄弟で京都府立陶工高等技術専門校(京都陶芸大学校)に進学し、兄の浩二はろくろ成形、弟の秀平は絵付けを学んだ。
卒業した後、弟は父 芳岳さんに弟子入りし、兄は宮吉製陶所の北川道雄さんに師事し、「型打技法」を学んだのち父に弟子入りした。
そして2022年、兄弟揃って伝統工芸士となり、兄弟で加賀赤絵の伝統を守りながら、古九谷の青磁の再現や砡質手の復活などに積極的に取り組み、次世代にその魅力を伝えるため研鑽を重ねている。
九谷焼発祥の地、加賀市で誕生し確立した加賀赤絵。
赤絵具で細密に描く加賀赤絵の伝統を継承する兄弟は、良き相棒であり2人で1つの作品を完成させる。
互いの技術を引き立てるよう自らの技術をぶつけ合う。こうして完成させた作品には兄弟の絆が宿っている。
九谷焼の原点は、今から約370年前の江戸時代前期に作られた古九谷です。
僕は素地を作る時、古九谷から学ばせてもらっています。古九谷の形はすごくきれいで、決して古さを感じることはありません。
古九谷は、先人が残してくれた遺産であり、教科書です。高度な技術の全てが詰まっていて、作品を通して技術の奥深さを教えてもらっています。
伝統の形からヒントを得て、現代にあった新しい形を日々考えています。
一生かけて古九谷を追求し、先人から受け継ぐ想いも一緒に形に込めています。
九谷焼発祥の地、加賀市で生まれ、こうして筆を持てることに感謝しかありません。
父から赤絵の技術を学び、兄が素地を作ってくれるおかげで絵を描くことができます。
兄は形にもこだわり、赤絵具が映えるような白い素地を作ってくれ、その素地は「絵を描きたい」と思わせてくれます。
兄はなくてはならない存在です。
良い形をどのように活かすか、どうしたら形が活きるような絵になるかを常に考えます。
絵は形を良くも悪くもしてしまいます。形を生かすも殺すも絵付け次第なんです。ですから、毎回筆を握る時は緊張します。
九谷焼の多くが分業制ですが、我が家では、形を作り、絵付けまでするので、密にコミュニケーションがとれるんです。
形のための絵が描け、絵のための形を作ることができる。これは何よりの強みなんです。この強みを活かし、誰も挑戦したことのない難易度の高い作品にチャレンジしようと話しています。
その1つが赤絵の名工、初代・中村秋塘が生み出した砡質手の再現に挑んだ事です。
白絵具を盛り上げて紋様を描く砡質手は、長らく再現不可能とされてきた技法です。それを見た時は、その美しさに引き込まれ「どうやったらできるのか?ぜひ、再現してみたい」と思いました。この技法は後世に残さないといけないものなんです。
私が日々研究を重ねてきた再現までの技術を弟の秀平に託しました。結果、再現に成功したんです。それは、先人の技術を途絶えさせることなく後世に伝えるという役目を果たすとともに、ここからが新たなスタートになると確信しています。
再現不可能とされてきた明治・大正期の赤絵の名工、初代・中村秋塘が生み出し、白絵具を盛り上げて紋様を描く砡質手。その砡質手を再現し、完成させた技法「白砡描割」の秘密に迫る。
江戸時代前期の1655年頃、加賀の支藩だった大聖寺藩の領内(現在の石川県加賀市山中温泉九谷町)で陶石が発見され、大聖寺藩初代藩主 前田利治が、錬金の役を務めていた後藤才次郎に命じて肥前有田で製陶を学ばせた。
1700年代の初頭に廃窯するまでの間に焼かれたものは「古九谷」とよばれ、日本の代表的な色絵磁器として高く評価されている。
1800年代になると加賀藩営の窯が金沢に開かれ「再興九谷」の時代が幕を開ける。古九谷の再興を目指した吉田屋窯、赤絵細描の宮本屋窯、金襴手の永楽窯など数多くの窯が出現し、それぞれ特徴的な技法が生み出された。
明治時代以降は海外へと輸出されるようになり「ジャパンクタニ」の名で現在も親しまれている。