Nishikawa Tomonari
1994年 熊本県出身
熊本県荒尾市の小代焼 中平窯の窯元である西川講生の長男として生まれる。
幼い頃から工房で土に触れ、跡を継ぐために大学では陶芸を専攻した。
大学を卒業した後、父に弟子入りし、日常使いの器を作る傍ら、江戸時代に作られた古小代で用いられていた技法を研究し、その再現にも力を注いでいる。
弟子入りから7年目を迎え、初めて登り窯の窯焚きの指揮をとることになった。
小代焼は器の景色が多彩で、小代焼を象徴する「流し掛け」という技法により、自由奔放に釉薬で模様が描かれます。この技法は小代焼誕生当時から変わることなく受け継がれ、柄杓を使って描きます。釉薬を柄杓一杯にすくい、柄杓を器と同時に動かしながら線に抑揚をつけ、踊るような動きをつけることで、釉薬がリズムを奏でます。
弟子入りした頃は、釉薬が全く言うことを聞いてくれませんでしたが、父は何度も失敗させてくれました。そして、失敗から学ぶことの大切さを気づかせてくれ、失敗こそが成功の近道だと感じるようになりました。失敗から学んだ器の景色で、暮らしに彩を添えられるように、一つひとつを丁寧に作り続けたいと思います。
今回、父から大きな仕事を託されました。それは、初めて全ての指揮をとる登り窯の窯焚きです。
窯焚きは粘土作りから始まり、時間をかけ積み上げてきたものが最後の一瞬で決まる重要な仕事です。30時間、炎をコントロールできなければ、器に理想の景色を描くことはできません。窯の状態を冷静に見極め、最も難しい「火を止める決断」は、そのタイミングで美しくなるか否かが決まります。ラストの5分、薪の一くべ、二くべが勝負なんです。
今回、窯焚きを任せてもらえたのは、陶工人生において大きい財産になりました。
最後の5分が描いた器の景色は、狙った美と偶然の美の狭間で生まれたと思います。
この土地で灯されてきた伝統の炎を消さないよう、これからも汗を流したいと思います。
小代焼の魅力は自由奔放なところで、自分のやりたいように器に向き合えるところです。
小代焼の象徴である流し掛けは、一つとして同じ模様はありません。作り手の性格や柄杓を握った時の気持ちで釉薬を走らせます。自由でいて、型にはまらないからこそ描ける模様です。とは言っても、まずは、約400年受け継がれてきた伝統の技術を自分のものにすることが大切です。自由奔放に見える流し掛けも、ロクロで挽く形も、窯焚きも全てが伝統という土台の上に成り立っています。技術がなければ、頭に思い描いた形を表現することはできません。智成には、伝統の技術を自分のものにして、そこから新しいものを始めてほしいと思います。こうした歴史を繰り返してきたからこそ、小代焼の今があると思っています。
工房は小岱山の懐、豊かな自然の中にあります。窯焚きの炎が燃え盛るすぐ横で、蛍が優しい光を放ちながら乱舞していました。
そんな工房に併設されたギャラリーに、ひと際存在感のある器が並んでいます。江戸時代に焼かれた小代焼、古小代です。
智成さんは「そこから学ぶことが多い」と言います。古小代に残る指の跡に自分の指を重ね、その器の握り方から先人の体の動きを想像し、作品作りに活かしていました。
数百年の時を超え、指の跡を通じて先人と会話をしているように見えました。そして、「器に残された痕跡から答えを探し出す、それが焼き物のロマンだ」と目を輝かせていました。
智成さんの器に未来の陶工が指を重ねる、そんな光景を想像するとロマンを感じずにはいられませんでした。
1632年、細川忠利が豊前国(現在の福岡県)から肥後国(現在の熊本県)に国替えとなった際、共に移り住んだ2人の陶工が小岱山麓に登り窯を開いたことが小代焼の始まりとされている。
鉄分が多い粘土を使うこと、青色、白色、黄色の釉薬の器に、藁灰釉で描く「流し掛け」という自由奔放な模様が特徴。
長らく細川藩の茶器が一子相伝で焼かれていたが、江戸時代後期になり「瀬上窯」が築かれると、多くの職人を雇い入れ、多種多様な器が生産されるようになる。
現在、小岱山を中心に県内に11の窯元が古くからの技術・技法を現在まで継承している。
2003年には、国の伝統的工芸品に指定された。