Furudate Ryunosuke
1992年 岩手県出身
岩手県大槌町の酒蔵「赤武酒造」の長男として生まれ、高校卒業後は、実家を継ぐため東京農業大学の醸造科に進学した。
1年生の終わりに東日本大震災が発生し、大学を中退し帰省しようとしたが、父 秀峰さんとの話し合いの末、大学卒業を優先することに。
卒業後は酒造りの現場で研修を受けながら「赤武酒造 復活蔵」の再建に尽力した
27歳の時に南部杜氏試験に合格し「若者にも愛される酒を造りたい」という想いを胸に酒造りと向き合っている。
大学の講義は「机の上で少ない米と水で発酵を観察する」といったことが主で、現場の大きなタンクでの酒造りとは全く異なりました。初めて自分で酒を作った時は、タンクの中の麹と酵母、微生物を全くコントロールできませんでした。タンクごとダメにするような失敗にはならなかったものの、全然思い通りの味にならなかったことを覚えています。始めは「自分一人でやらないと」という気持ちが強く、不眠不休で闇雲にタンクにへばりついてましたが、午前中の一番大事な仕込みの時間に頭が働かなくてふらふらになっていました。そんな状態では良い酒は決して造れない、と実感しました。
もともと造っていた「浜娘」という酒は、震災復興支援のイメージが付いてしまったので、違う銘柄を造る必要がありました。そこで若い社員たちと「覚えやすく、インパクトのあるパッケージにしよう」と考え、AKABUのラベルを作りました。「若者の酒離れ」と言われていますが、もともと日本酒は若い人には飲まれていなかったんです。今は、どうしたら20代や30代の方に飲んでもらえるお酒を造ることができるか、ということを常に考えています。
「日本酒の製造技術がこれ以上レベルアップすることはない」などと言われています。空調設備も発達して、計器類も本当に細かいデータが取れるようになりましたから、安定した環境を作りやすくなりました。あとは「香りや味わいの部分でどれだけチャレンジできるか」というのが、今の杜氏に求められていることだと思います。その味にも時代があって、その時代の味にあった酒、それを造る方法っていうのは必ずあるんです。今の時代に合ったお酒を造るということに敏感になって、様々な情報を得ながらしっかり勉強していきたいです。
もともとは大槌町で酒蔵をやっていましたが、震災で全てを失ってしまいました。
盛岡に移り住むことになったわけですが、今後の酒造りがどうこうというレベルではなく「これからどうやって生きていくか」という状態でした。蔵の再建にあたっては、本当にたくさんの方が走り回ってくれました。そして「浜娘」という酒がどれだけ愛されていたかを目の当たりにしました。
震災から3年でもう一度蔵をスタートすることができましたが、日本酒の売り上げは昭和40年代頃からずっと右肩下がりを続けています。
龍之介とは「毎年120万人生まれる新成人をターゲットにして、自分たちの市場をつくろう」と話し合いを続け、今のAKABUに辿り着きました。
今は色々な酒がどこでも手に入る時代です。ちょっとでも不出来だとすぐ他所に行ってしまいます。だからこそ、龍之介には結構厳しいことを言っていますよ。
私が赤武の日本酒を知ったのは今から6年ほど前。赤い兜のラベルの力強い絵から、パンチの効いた酒を想像しましたが、飲むと華やかで爽やかな味で、そのギャップが印象的でした。
しかも「その杜氏がまさか20代(当時)とは」と驚きました。
龍之介さんの第一印象は、物静かでおっとりした好青年。酒造りは一貫していて、全くブレない強さを持っていました。
目指す味と香りを引き出す、徹底した温度管理と時間管理の中で行わる作業。
酒造りを始めて9年「若い社員たちとの酒造りの土台がようやくできた」とおっしゃっていましたが、これからどのような味わいの日本酒を世に送り出してくれるのか、とても楽しみです。
岩手県石鳥谷町を拠点とする、日本酒を造る代表的な杜氏集団の一つ。
かねてより自家醸造で酒造りが行われていたが、1606年頃、南部藩の御用商人であった村井氏・小野氏が大量仕込み樽の製法を領内にもたらし、藩の支援によって盛岡城下での本格的な藩造酒の生産が始まった。
藩造酒の技術は農村部で師弟へと伝承され、やがて藩領の外へ出稼ぎに行く杜氏たちを生み出すことになった。
これによって南部杜氏が国内最大規模の流派を形成したといわれ、新潟の越後杜氏・兵庫の丹波杜氏とともに「日本三大杜氏」と呼ばれるようになった。