Kojima Mariya
1982年 福井県生まれ
福井県坂井市で代々提灯を作り続けている「いとや提灯店」の三人兄弟の末っ子として生まれる。
短大を卒業後、一度は調理師の道に進むものの、25歳の時、父であり師匠の畑峰雄氏への弟子入りを決意し、提灯職人の道を歩み始める。
現在は一児の母となり、家庭を切り盛りしながら、職人の技に磨きをかけている。
もともと料理を作ることが好きなこともあって、短大を卒業した後、調理師という職に就きました。
仕事を通じて社会や仕事の厳しさ、そして厳しさの中にある「やりがい」を肌で感じることができるようになったんです。
そんな頃ですかね、朝早くから夜中まで、黙々と提灯を作り続ける父の背中を見ているうちに、「少しでも父の助けになりたい…」という意識が芽生えたのは。
そして次第に「私も提灯を作ってみたい」と強く思うようになっていったんです。
小さい頃、絵を描いたり工作をしているうちに、あっという間に時間が過ぎたことがよくありました。もともともの作りは好きでした。でも、まさか自分が提灯職人になるとは夢にも思いませんでした。
提灯作りという仕事は、家の仕事であり、父の仕事としか見ていませんでした。「いつもの光景」でしたから。今思えば、提灯は見ていたけれど、提灯の作り方などは、ほとんど見ていなかったかもしれません。
私にとって「いつもの、当たり前の光景」がなくなること、そして提灯作りという仕事が絶えてしまうことはとても寂しいことです。「いとや提灯に火を灯し続けたい」という気持ちもあって職人になることを決めました。
また、今の提灯作りは工程の一部分だけを担当する分業制がほとんどですから、最初から最後まで一人の手によって仕上げる「いとや」の提灯作りは、もの作りが好きな私にとって大きな魅力でした。
職人の仕事がいかに大変かということは身に染みて分かっていますから、自分の子どもたちに継がせるつもりはありませんでした。
長女は嫁に行き、長男はフランス料理のシェフとして独り立ちしています。
まりやも調理師の道を進んで行くものだと思っていましたので、「提灯職人になりたい」と聞かされた時は正直驚き、「やめた方がいい」と反対しました。
でも、内心はとっても嬉しかったんです。まったく思っていなかった娘からの決意、提灯職人になることへの熱意に本当に感動しました。
入門してから3年経って、少しずつですが職人の感覚が身に付いてきたかな…と思ってます。早く楽できる日が来ないかな、と待ち望んでますよ(笑)
この街は、提灯をなくてはならないものとして、昔も今もとても大切にしており、街にはいくつもの「いとや」の提灯が掲げられている。
一人の職人の手によって仕上げられるこの提灯は、とても魅力的で心を惹き付ける暖かな火を灯していた。
まりやさんは、新しいものを取り入れながらも、よき伝統を受け継ぎ、「福井にいとや提灯あり」といわれるよう、今日も切磋琢磨し技術の習得に励んでいる。
提灯の始まりは室町時代以前に中国から伝えられたとされている。
その当時は現在のように折りたたむことができなかった。
それが安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて一般的に普及し、携帯性を重視した折りたためる提灯が誕生した。