Goto Yuto
1994年 新潟県生まれ
新潟県の表具店の三代目として生まれた。
幼いころから父の背中に憧れ、ゆくゆくは表具師になり家業を継ぐと決めていた。
父が表具の本場、京都で10年修業した後に、家業を継いだことに倣い、高校卒業後、京都へ行くことを決意。「京表具 藤田月霞堂」で修業をはじめた。
「良い表具でないと後世に残らない」という信念のもと、日々技術に磨きをかけている。
祖父、父が表具師をやっていたため、「家業を継ぐ」という意識はずっとありました。しかし、本格的に職人を目指そうと思ったのは、高校を卒業して、将来を考えた時です。実家を継ぎ、表具という仕事を絶やさずに後世につなげていきたいと思い、この道に進みました。
京都で修業する一番の魅力は、「本物」に触れる機会に恵まれているという点です。本物の作品を見ることで知見を深め、腕を上げることができると思います。
貴重なものや高価なものは、驚くほど丁寧な仕事がなされています。京都ならではの歴史の重みを感じながら、超一流のものに触れるという経験は、確実に自分の血肉になっていると思います。
一言で言うと、「脇役」だと思っています。作品を引き立てるのが役目で、書画を影で支える存在です。しかし、脇役がいるからこそ主役が引き立つものだと思うので、無くてはならない仕事にかわりはありません。
作業中は、掛軸が完成してお客さんの手元で、しっかり綺麗に掛かっている姿を想像しながら取り組んでいます。一言で和紙といっても、一枚選ぶのにも、沢山の知識と経験が必要なんです。
和紙一枚一枚、材料一つひとつには、それぞれ魂を込めて作ってくれた職人さんがいます。その想いも考えると絶対に無駄にはできないですよね。想いの詰まった材料を表具師が厳選させていただいて、使わせてもらっています。それぞれの職人さんの技術と想いがあってこそ、一つの掛軸に仕立てていくことができるんです。
今後、100年以上も後世に残っていくような掛軸を作っていくことができたらいいなと思っています。
「表具師」という仕事を知らない方が多いように、表に出てくることがない裏方に徹した仕事です。例えば、掛軸、絵画の作者や書道家の名前はあっても表具師の名前は普通ありません。
しかし、表具師がいなければ、国宝でも重要文化財でも何十年かで朽ちてなくなってしまうんです。修復や仕立ての技術は簡単にできることではなく、非常に特殊な知識と技術が必要です。それがあるから何千年と作品が残っていきます。
掛軸などの表具に仕立てるということは、単に見栄えを良くするだけでなく、後世に残すための「保存」という意味合いが強いです。描かれた方は、それぞれ想いをもって作品を完成させたと思うんです。作者の気持ちもできる限り考えながら、共感できるように修復をしています。
全ての美術品や工芸品、文化財などを下支えしている重要な仕事だと思っています。
なぜ修復ができるのか?どうして作品が数百年ももつのか?というと、世界に誇れる非常に優れた紙、「和紙」があるからです。
和紙は基本的に「楮」という植物でできています。良い和紙は生きていて呼吸をしています。そんな素晴らしい和紙を使わせていただいているからこそ、作品を後世に残していけるんです。和紙の職人さんが丁寧に漉いてくださっているからこそ、素晴らしい日本の文化が守られているんです。
和紙の職人さんも減少していると聞きます。共に手を取りあって、日本の文化を支えていけたらと思います。
工房は、きっとピリピリしているに違いない。撮影をスタートした時には、そのような先入観がありました。
ところが実際はまったく違い、師匠たちと若い職人さんが家族的な温かな雰囲気の中で作業をされていて、いつも笑いが絶えないことにびっくりしました。
作業にあたっていた後藤さんに「楽しみは何ですか?」と尋ねると、表具を作っている時、それが難しくなればなるほど楽しいと、答えてくれました。
困難とも笑顔で向き合える、そんな姿勢で表具に取り組むからこそ、良い表具が生み出されるのだと思いまいした。
後藤さんの笑顔は眩しいぐらい輝いていて、その輝きは、表具の未来を照らしていると確信しました。
表具・表装の目的には、鑑賞だけではなく保存も含まれる。
寺社、宮中、茶道の家元といった表具に関わりの深い文化と歴史の都、京都で発展。
洗練された美意識、床の間の完成や茶の湯文化と共に広がり、西陣織や吉野の紙など良質な材料にも恵まれ、京都の表具は「京表具」と言われるようになった。
書画と一体の品格、匠の技、日本の美意識を極限まで追求した伝統工芸と言える。
室町時代の浄土真宗の僧。応永22年(1415)に本願寺第七世宗主・存如上人の長男として京都に誕生。当時の本願寺は経済的に苦しい不遇の時代だったが、わずか一代で本願寺の隆盛を図った。全国に親鸞聖人の教えを徹底し、さらに現在の本願寺教団の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。
明応8年(1499)、山科本願寺で多くの弟子や門徒たちに見守られる中、85年の生涯を終えた。