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シーサー職人
新垣 優人

Arakaki Yuto
1994年 沖縄県生まれ

読谷村で代々、家族でシーサーや器を作ってきた窯元「やちむん家」に生まれる。
職人になるという考えは持っていなかったが、大学在学中、父・光雄さんが京都の清水寺に奉納する龍の作品を見た時に、その造形の迫力と技術の高さに感動し、シーサー職人になることを決意する。
現在は「手にした人が幸せになるように」との気持ちを込め一体一体の製作にあたっている。

岩に乗った時に踏みしめている脚を想像し、穴の内側から筋肉の隆起をつける。
指の形も何のためについているかを考え、命が宿っている動物っぽさを追求している。

新垣 優人さん インタビュー
シーサーに対する想い

シーサーは昔から家の屋根や門に飾られている沖縄の象徴。沖縄の風景にシーサーはなくてはならないものだと思います。
シーサーは魔除けなので作り終えた時に完成ではなく、お客様が家に設置して初めて魔除けとしての効果が生まれます。その設置された姿を想像して、災いに睨みにきかせ、幸せが訪れるように想いを込めています。顔の表情、毛一本一本、焼き色、全て自分が納得できるものを製作しなければ、手にしてくれたお客様はもちろん、シーサーに対しても失礼になります。
形や色などシーサーには正解がないので、自分ならではのシーサーで、沖縄だけではなく日本中、世界中の幸せのお手伝いができればと思っています。

顔のパーツをひとつずつつけてゆく。土を丸めた眼球をはめ込み、眉毛をつける。
眉毛の影も計算し、鋭い眼光を作り出している。こだわりと丁寧な技が迫力を生み出す。

師匠
新垣 光雄さん インタビュー

沖縄の人にとってのシーサーとは?

沖縄の人にとって、なくてならないものの1つがシーサーです。誰もが小さい時から身近に感じ、置物というより家族の一員のようにいつも側にいる大切な存在です。
沖縄のシンボル首里城が焼失してしまい、県民の誰もが涙し、心の中にポッカリと穴が開いたような気持ちです。首里城は、これまで当たり前のように存在し、県民の心の支えでもありました。当たり前のように存在していたものが、なくなってしまうという事がこれほどまでつらいものだと気づかされました。シーサーには「火災除け」という意味もあります。近い将来、首里城の正殿が復興し、あの深紅の美しい姿を取り戻す日が来たら、息子たちとシーサーを作り首里城に設置できたらと願っています。
火災除けのシーサーを通じて首里城を守りたい、今こそ沖縄に生まれたことに恩返しする時期だと思っています。

松田 優人さん
もう一人の弟子
松田 優人さん
新垣 光雄さん
師匠
新垣 光雄さん
新垣 優人さん
弟子
新垣 優人さん

もう一人の弟子
松田 優人さん インタビュー

子供のころからシーサーが好きで、色々なシーサーを見てきました。その中で心に残るシーサーがありました。そのシーサーの側を通ると、声が聞こえるわけではありませんが、気配を感じ、目と目が合い、なにか優しく包み込んでくれました。成人してからわかったことですが、そのシーサーは、師匠が作ったものでした。
工房が読谷にあると知り、そこで改めて師匠のシーサーを見た時は感動で鳥肌が立ちました。そこで師匠から「一緒に作ってみるか」と声をかけていただき、弟子になりました。以来、毎日が夢のようです。子供のころ師匠のシーサーを見て感じたような、怖い表情の中に優しさがあふれるシーサーを作りたいと思っています。

取材を終えて

優人さんの祖父・栄得えいとくさん(91歳)とお話をする機会がありました。栄得さんは、海人うみんちゅからシーサー職人になった異色の経歴の持ち主です。
美ら海の魚や沖縄の船「サバニ」のこと、時には爆薬を積んだ船が海底に沈んでいたなど、海人時代の話を聞かせてくれました。もちろんシーサーの話も。
シーサーを作る時、「気持ちを打ち込むと生きたシーサーになる」と教えてくれ、また、シーサーが夢に出てきて「こんな形に作ってくれ」と語り掛けてくることもあったと言います。
90歳まで現役でシーサーを作っていたシーサー人生。栄得さんの瞳は、シーサーのように力強く、沖縄の海のように輝いていました。

シーサー

シーサー

シーサーは、沖縄の多くの家の屋根や門前に設置される守り神。
紀元前、古代オリエントのスフィンクス(権力の象徴)がシルクロードを経て、13~15世紀頃、沖縄に伝来したといわれる。
名前の由来は、獅子が沖縄の方言によって、シーサーと言い換えられたことがはじまり。民家に赤瓦の使用が許されるようになり、瓦職人が漆喰のシーサーを作ったことがきっかけで魔除けとして設置されるようになった。

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