Morodomi Keitaro
1986年 熊本県出身
江戸時代から続く素麺の里、南関町。創業およそ300年。
徳川将軍家や皇室にも素麺を献上してきた「雪の糸素麺 猿渡製麺所」の十代目。
南関素麺の代名詞「曲げ素麺」と屋号でもある限界まで細く延ばされた「雪の糸素麺」の2種類を作る。
雪の糸素麺の名人といわれた祖母の井形朝香さんに師事。全国的にも貴重な機械を一切使わない「手打ち、手延べ」の伝統製法を受け継ぐ数少ない職人のひとり。
幼い頃の遊び場は、祖母がいる製麺所でした。祖母が作る素麺はとても美味しく「おばあちゃんのような素麺を作りたい」というのが夢になりました。学校が休みの日には、手伝いをしながら素麺作りの基本を覚え、代々、繋いできた昔ながらの伝統製法を途絶えさせたくはないと思ったことを覚えています。
素麺作りは楽しく、おもしろい仕事で、今、こうして素麺が作れているのは、技術を繋いできてくれた先祖のおかげですし、南関町という素麺作りに適した気候風土の土地に恵まれて感謝しかありません。これからも次世代にバトンを渡せるように良い素麺を作り続けたいと思います。
弟子入りしてまもなく、祖母は大病を患い余命宣告を受けました。体調がすぐれない中、代々守り伝えられた製法を私に繋げなくてはという強い覚悟を感じました。そして、体力も落ち、食が細くなっていく中「素麺が食べたい」との連絡があり、私ひとりで一から作った素麺を食べてもらいました。祖母に「美味しい」と言ってもらい、少しは認めてもらえたのかなとホッとしました。ほどなくして祖母は息を引き取りましたが、技術を遺すことができて安心して天国へ逝けたんじゃないかと思います。素麺作りに人生を捧げてきた祖母は生前「命をかけて作りなさい」と言っていました。その教えを胸に刻み、日々素麺と向き合っています。
祖母が生前に作った「雪の糸素麺」を今も大切に保管しています。いつ見てもキレイな素麺で、私の素麺作りにおける教科書であり道標です。そんな祖母の素麺を食べる日を決めています。それは「自分が最高だと思える素麺」が完成した時。祖母が作ったものと食べ比べをし、相違がないか、祖母から教えてもらったことを正しく守ることはできているのかを確かめたいと思っています。一日も早く最高な素麺を作れるようになって、祖母の素麺を食べる日が待ち遠しいです。祖母の技と想いを受け継ぎ、幼い頃からの夢だった祖母の素麺に追いつけるよう、命をかけて作っていこうと思います。
今回、数軒の製麺所を取材させていただきました。完全手作りの南関素麺の製法は、数百年前と全く変わらず、まるでタイムスリップしたかのような光景でした。機械化が進み大量生産の時代でさえ、手仕事にこだわる理由は「手作業でしか味わえない味」だそうです。時間と手間、こだわりと愛情をかけて作られた素麺は、これまでの素麺の概念が覆されるほどの美味でした。ぜひ味わってほしいと思います。
慶太朗さんは、真冬でも背中に湯気が立つほどの汗をかきながら、祖母が遺した伝統製法を忠実に守りながら作業に没頭していました。太陽の下、北風に揺れる慶太朗さんの素麺は絹糸のように輝き、その輝きこそが何世代にも渡って紡がれてきた確かな技術と味の証なのだと感じました。
素麺は、およそ1200年の歴史があり「日本最古の麺」といわれ、鎌倉時代の頃には、すでに現在と変わらない製法が確立されていたとされる。
元々、素麺は宮廷料理であったが、江戸時代中頃には庶民に広まり、当時の夏に素麺を味わう様子が浮世絵などでも確認できる。
熊本県の南関町で素麺作りが始まったのはおよそ300年前。細川藩(現・熊本県)の藩主から徳川幕府や皇室への献上品として用いられた。現在、10軒の製麺所が全国的にも貴重な完全手仕事の手打ち・手延べの製法を守り続けている。中でも、冬の北風にさらされる「寒素麺」は格別とされ、南関素麺は生産量が限られるため「幻の素麺」と呼ばれている。